私は、経済的DVが原因で別居、離婚しました。離婚、早まったかも。と思ったこともあるし、今でも時々思います。
子どもがいないので、子どもに悪いことしちゃったな。ということはありません。私の、気持ちの問題です。
今日は、楽しかった結婚生活と離婚はやっぱり正解だったと思う理由についてまとめてみました。
出会って28年・結婚生活21年間の楽しかった思い出
私と元夫は、大学院時代に同じ寮に住んでいて出会いました。出会いは、入寮してすぐの4月初め。
私が共用の台所に入ると、元夫がいて、挨拶をしてくれて、手慣れた様子で料理をしようとしていました。若干、老けても見えるので、「先輩に、先に挨拶をさせてしまった」と、うろたえました。すぐに、入寮は同期だとわかりました。
当時、私には彼氏がおりました。
入寮同期には、気の合う子が他にもいました。私と元夫を入れて、男女2人ずつの計4人。毎晩、お酒を飲んでました。何を話していたのか覚えてないけれど、毎日、午前1時とか2時とかまで飲んでいました。
人が人を好きになるのには、接触回数が多いことも理由の一つです。毎日、一緒に飲んでいて、性格のよさもわかってきた元夫。
比べて、付き合って1年の彼氏とは、よく会えても週に1日。
しかも、私は、彼氏にある恨みを抱いていました。もう書いたかもしれませんが、付き合って初めてのクリスマスのことです。当然、デートしたいですよね。時間的には、デートできる状態でした。
でも、あろうことか、彼氏は、合コンに参加してました。げっ。今、思い出しても腹が立ちます。
私も彼氏も学生で、研究室のみんなに悪いから合コンに参加する。と言われました。今もって、意味不明です。
研究室の付き合いと私で、どっちが比重が重いねん。私やろ?と思ったのですが、彼氏にとっては違ったんです。
いつか手ひどくふってやる。とさえ、思ったものです。まあ、それもあって、その彼氏とはお別れし、元夫と付き合い始めました。
元夫はバイク乗りで、当時は125CCのバイク、後には750CCのバイクに乗りました。出かける時には、基本バイクでした。
山用のコーヒーを入れる道具を持って行って、河原でコーヒーを淹れて飲んだり。花火大会に出かけ、帰りにタイヤがパンクして困ったのも、今となってはいい思い出です。
元夫は博士課程の時に、1年ストックホルムに留学しました。その時、二人で、2か月、バックパッカー旅行をしました。
ヨーロッパの10カ国回って、色々なところを見たり、現地の美味しいものを食べたりしました。
モナコの海で泳いだ時には、貴重品を元夫の水着のポケットに入れてました。あれ、落としてたらシャレにならなかった。
思い出がありすぎて、全てを書くことはできませんが、とにかく楽しかったです。夏のヨーロッパを、堪能しました。
新婚旅行は、上海と杭州でした。
まだ、発展途上だった上海は、きれいな高層ビルに向かうオフィスマンとオフィスレディが速足で歩いていて。道の反対では、まだ木造の古い2階建てがあり、道端で料理する人もいました。
杭州は、ちょうどハスが満開の時期で、一番いい時に行ったのではないかと思います。
その後も、やはりバイクでよく出かけました。
遠出は、新潟、東北、北海道、九州北部なか中部。
海外へは、アンコールワットとバンコクへ行きましたね。
元夫の仕事の都合で、色々な場所に住み、その時々で近場のお出かけをしました。温泉も、たまに泊りで行ってました。
思えば、優雅な暮らしでした。リッチというわけではないけれど、ゆとりのある暮らしでした。一緒に、お茶を習ったこともありました。
お互いの誕生日、結婚記念日、クリスマスには、一緒にケーキを焼いたものです。一緒にて楽しかったし、ずーっと一緒にいられると思っていました。
経済的DVにおびえた3か月間
しかし、そんなゆとりのある生活も、元夫が派遣会社に登録した時からおかしくなりました。エンジニアとして登録しました。
なんで派遣だったかというと、色々と応募してみたものの採用されなくて、当時、唯一採用してくれたのが、その派遣会社でした。
ちょっと変わったシステムの会社でした。
普通、派遣っていうと、派遣先が決まって働いてる間だけお給料が出ますよね。その会社は、待機の時もお給料は出ました。でも、手取りで16万円ほどです。単身だと、家賃補助とか、引っ越し代補助が出るんですが、世帯持ちだと出ない。
生活は、結構厳しくなりました。
それでも、二人で頑張って、それまでみたいに仲良くやってました。
引越しを1年に3回もしたし、元夫が3班2交代制の夜勤の仕事でボロボロになったり。大変だったけど、二人だったから頑張れました。
でも、東京へ行ったことで、その仲の良い暮らしは崩壊しました。
今までにも何度か書いているように、元夫は、お金を湯水のように使い始めました。東京で一緒に生活したのは、たった3か月です。
多額(クレジットカードでひと月に160万円)お金の使い込みに気づいてからは、1か月半です。
本当に短期なんですが、額が額なだけに、めちゃくちゃ怯えました。
離婚を早まったのか正解だったのか
ある日、暴言が始まり、暴力もふるわれそうになったので、警察を呼びました。そして、そのままシェルターに避難しました。
何度か書いているように、何の心構えもなかったです。そのまま、別居して。
で、家を出た日に渡していた離婚届に、元夫はその日のうちに署名なつ印していてくれたらしくて。弁護士事務所を通じて、それが届いてすぐに離婚しました。
あれよあれよと、流れ作業のようでした。
その間、ずっと、「家を出たのは、失敗だったんじゃないか、もっと踏みとどまれたんじゃないか」と、後悔が何度も頭をもたげました。
特に、聴覚過敏のパニック発作や、過呼吸、不安発作のパニックを起こしている時。
「なんで、こんなことになったんだろう。ずっと、一緒にいられるはずだったのに」と涙しました。
泣きまくりました。
私は、最近、3か月の入院をしました。精神科に入院して、カウンセリングも受けました。
そこで、まだ、「喪の作業」が全く行われていないと指摘されました。
「喪の作業」というのは、例えば、身近な人を亡くした時には、ぽっかりを心に穴が開きます。でも、そのままだと生きていくのが辛いので、人はその穴を埋めようとします。思い出を語ったり、泣いたり、寂しさを思い切り味わったり。
お葬式や、1周忌、3周忌などの法要は、その「喪の儀式」で、悲しみを癒すためにも効果があると言われています。
私の場合は、死別ではないですが、実質は突然の死別のようなもので、放置すると回復に時間がかかりすぎるということでした。それで、外来でもカウンセリングを受けています。
話しを戻します。
入院前は、まだまだ、後悔の気持ちが沢山あって、離婚は正解だったり、離婚するしか方法はなかった。と、理性は理解しても、気持ちがついていかない状態でした。
でも、入院して、カウンセリングを受け始めて、気持ちも少しずつ、離婚は正解だったと思えるようになってもきました。
もちろん、まだ、正解だった!と、割り切っているわけではないし、ずっと割り切れないかもしれません。
でも、あの時、シェルターに避難して別居して、離婚したのは、正しいよい選択だったと思います。
経済的DVでの離婚を早まったのか正解だったのか体験談を語るのまとめ
私が経済的DVを受けたのは、たった3か月です。でも、月に160万円も使われて、先々がめちゃくちゃ不安になりました。
何の心の準備もないままにシェルターへ避難したので、シェルターにいる間も、ずっと早まったと後悔していました。そして、別居、離婚してからも、後悔し続けました。
でも、カウンセリングを受ける中で、後悔の気持ちは少しずつ減っていって、「離婚は正しかったんだ、離婚するしかなかったんだ」という気持ちがだんだんと強くなってきました。
DV離婚後は、後悔するかもしれません。
子どもさんがいる方は、特にそうかもしれません。
でも、DVからは逃げるしか、離れるしか方法はないと思います。